五木寛之の新幸福論という本を読みました。
その中に「青い鳥の去ったあと」 という章がありました。
「幸福の象徴としてよく使われる「青い鳥」貧しい木こりの子供、チルチルと
ミチルが夢の中で幸福の青い鳥を求めて旅をするが結局見つからない。
ふと、目が覚めると自分が飼っていたキジバトが青い鳥に変っていた」。
でも、原作はその後にも続きがあって、結局その青い鳥は窓から外へ
飛び立ってしまったのだそうです。なんだか、辛くなってきました。
そんな時、里帰りしていた長女夫婦からこんな話を聞きました。
ボランテア活動をしている友人、貧しい国と思っていたカンボジア
でも決して自分達は貧しいと思っていない、不幸と思っていない。
「かわいそう」は、豊かさを知っている国の人達が思うこと、今が幸せ、
彼らの笑顔は屈託がない。
ボランテアの意義を改めて考えさせられたというお話でした。
作者は 「おわりに」 の中で、
百万人の人間がいれば 百万通りの違う幸福があると結ばれていました。
幸せの象徴、「青い鳥」は初めから形が無かったのでは、
ふとそんな事を思ったのです。
暖かな春の一日
市内マラソンに参加しての帰り道、眠ってしまった孫達の寝顔は
そよ風のようです。
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