2008年5月27日火曜日

アイロンの蒸気が、出すぎです(工場変革)

  
アイロンの蒸気が、出すぎです。
ミシンの糸調子が、強すぎます。
こんなミシンでは薄い生地は縫えません。

2005年、秋
工場の中は毎日建設現場のような騒々しさです。

○○さん、いらっしゃいますか。
糸はこれでいかがでしょうか。
アイロンはこれでいいですか。

ミシンの修理販売をされるミシン屋さんや、付属を卸される付属屋さんに、
神様のようにあがめられているのは、一年間縫製指導をお願いした○○さん。

自動裁断機を薄手用に買い替え、芯貼り機を修理し、穴カガリや釦付けの機械を
購入。

生産分野を任されている副社長は、ついに 「リミットをつぶすきか!」と激怒。

 
裁断するたびに、一枚、一枚、パターンと違いはないか、振れていないかを確認し
芯貼りをした後で歪んでいないかを確認、
縫い合わすとき、左右の生地にずれはないか確認、

そんな気の遠くなる毎日・・・。

やがて、少しずつ、工場にも企画室にもノウハウが培われ、縫製とパターンの関
係が整理され、明日がやっと見えるようになった頃、彼女との契約期間がきれました。

3年が過ぎた今、工場は流れるようなミシンの音の静かな工場に生まれ変わりました。



そんなある時、久しぶりに見えたミシン屋さん。

4年前、企画の隣に工場を作った時、ドイツ製のミシンを購入しました。
素人でもきれいに縫えるだろうと、輸入先の業者さんの所まで見学に行かせて頂い
て買いました。

でも、針が折れたり、油が散ったり、部品が故障したり、とうとう最近では工場の隅に
追いやられていた高級ミシン。


      「すみません! ソフトが間違って入っていました。」


技術が勝負の業界も、どんどんソフト化が進んでいます。

もしかしたら、時代は備後を置いてけぼりするつもりかもしれません。




2008年5月19日月曜日

出会い(工場変革)

 
その年は、小雨のよく降る春でした。

勢いでスタートした工場は、作業服しか縫った事のない古参の社員達と分離させ、
日本生命ビルの中にある企画室の中に設備を整えミシンを置き、小さな工場を作り
ました。 

高校を卒業した女の子たち3名は、まだ幼さの残る少女達。
ミシンを初めて踏む少女もいました。

縫製指導に白羽の矢が立ったのは、わずかに縫製経験のある私。
内心どきどきしながら、運針練習の日々が過ぎていきました。 

それは、思いもかけない出会いでした。

チーフが たまたま勉強会で知り合った女性、
彼女は、有名ブランドの工場で縫製指導をされていた人でした。

一年間工場指導をお願いし、岡山から新幹線で通勤、縫製経験のある派遣社員
一名と一緒に、アイロン掛けから縫製指導が始まりました。

厳しさに泣き出す女の子達、
それでも、懸命に指導は続きます。
売れないサンプル商品は、いつの間にか机の上をいっぱいにしています。
専務は見ない振りして通り過ぎます。

やがて、工場は新市の本社工場と統合、改めて7名のライン編成でスタートしたの
ですが、工場の設備は何一つ、彼女のめがねにかなったものはなかったのです。

その年の10月、カタログが創刊されたその頃、工場はやっとブラウスが縫えるように
なったばかりでした。

やむおえず、「縫製は確か」と、評判の外注工場で縫ってもらったジャケットは、
彼女の 検査基準を超えません。


結果、一枚ずつ手直しをして、出荷をすることになったのです。


幸いな事に、

縫い直して出荷しても、大丈夫な程の、注文量でしかありませんでした。

 

2008年5月13日火曜日

かわいい釦


かわいい釦のTシャツは、b×c の来年発売予定の新商品。

小さな釦が並んでいて、私もひそかに 「かわいいな」 と 期待大。

でも、工場でちょっとしたトラブルが・・・。

それは、一つ一つ手縫いで、釦をつけなくてはいけないのです。

能率を、考えると とても時間のかかる、手仕事です。

工場は、機械で付けられる釦を、選んで欲しい。

デザイナーは、この釦は外せない。

首周りの縫い方も、見返しの縫い方も、その部分だけを縫って確認し、
やがてパターンへ、サンプル縫いへ、 と 進んでいくのです。
 

こんな繰り返しの中、また一つ商品が、練り上げられていくのです。

 

2008年5月7日水曜日

絣から (工場変革)


日本三大絣といえば、「久留米」「伊予」「備後」があげられます。
中でも広島県福山市の備後絣は、機械化で量産に成功、飛躍的発展を遂げました。

江戸時代に始まり、明治元年に大阪で量販の道を拓いた備後絣は、1960年前半に
全国シェアの七割を占めるほど、生産していたといわれています。

幼い頃の記憶の中に、お母さんといえば 「絣のもんぺ」姿が浮んできます。

やがて洋装中心の、新しいファッションの台頭や、海外の製品に押されて、絣はいつ
の間にか、その姿を消していったのです。

絣に代わって発展したのは、繊維産業でした。
40年前、町には集団就職した人達であふれ、行きかう車にはぎっしり積み込まれた
製品、町は繊維と共に発展していました。
 
 
リミットは、絣の賃加工から始まりました。
やがて、男性の作業服を中心とした加工から、女性の作業服へ、そして、アパレル
メーカーへと、 社長(現会長)の夢は膨らんでいきました。
 

時代は、備後をアパレルメーカーから やがて、流通業へと変えてしまいました。


四年前のリフィンスタート時、わずかに残った国内工場は、中国での計画生産の
フォロー役として、 わずかに機能していたにすぎなかったのです。